「聴く」という能力
「聴く」という能力に注目している。
友人の落語家は高座ではもちろん話しは独占だが、飲み会・懇親の席になるとそれぞれの語りをとてもよく聴いていて話しをうまくまわしている。参加者はひとりひとりが盛り上がって楽しい。おみごと。
対照的なのは、話しをむりやり独占して、自分のことばかりを話すヒト。司会役が言葉少ないヒトに話しをまわしても、しってかしらずか、すぐに話しを自分のほうに奪ってしまう。それも面白いならばマシだが、こういう手合いは概してつまらない。しらけてしまう。本人は自覚がないのだから始末がわるい。
会議・議論にしても然り。自分の主張に終始して、相手を突き、ただ議論に勝とうとするばかり。相手の話を聴いて新たな展開・アイデアを生み出す努力が見えない。だから成果は出ない。かってはディベートの能力がもてはやされていたが、それを間違って解釈しているのかもしれない。その後「コミュニケーション」という言葉が流行っているが、意識は良しとしても、中途半端な風潮の感じがする。
相手の話しを「聴く」というのは忍耐が必要で、けっこうつらい。また聴いていてあまり話していないかというとそうでない。意外と話している。相手と会話ができているから想いが相手に良く伝わっていることが多い。相手の言いたいことがわかり、さらには相手が気付かなかったことまでわかることさえある。相乗効果で思わぬ成果・たからものさえ見つけることがある。愉快である。明るい。第一お酒が旨い。しかしまあ、それでも自分のことばかり喋ってしまう。この愚かさは。
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コメント
持論・結論がなければ、議論する資格もないはずだが、相手かまわず言いがかりをつけて議論をしたがる人がいる。
折角、相手を議論で打ち負かしても、それに代わる自説を提案できないのは非建設的である。
議論では「破壊は建設なり」とは行かない。不毛の議論にしかならない。時間はいくらあっても足りない。
自説を述べればそれで万事発表は終わる。
さらに、自説に似た他説があれば、自説の優位性を述べることも有益なことである。
これは、人類の進歩につながる建設的な態度である。
考える人にならなければ、自説はできない。このような人は、とらえどころのない人と呼ばれている。
しかるに、丸暗記と受け売りの学力を使って議論をしかけようとしている。
真正でない学問をもって世俗におもねり、人気に投ずる言説をなすことを曲学阿世というが、こうした行いが横行している。
こうした行為は、あながち個人の責任には帰しがたいが、由々しい事実であることには間違いない。
イザヤ・ベンダサンは、自著の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
日本語には、時制というものがない。だから、未来時制もない。
自分達が努力して向かうべき理想の内容も語られることがない。いわゆる無哲学・能天気である。
未来社会の内容が明らかにならないので、われわれは未来社会の建設に着手出来ない。
日本人の世の中の把握の仕方は、現実の有様に関するものである。「世の中は、、、」の形式で表現される内容である。
現実の内容は、皆がほぼ一致する。一人から答を得たら、それで皆の答がわかる。
現実の内容は、変えられない。政治家には、政治哲学がない。
だから、日本人は閉塞感に襲われる。
英米人の世界観は、未来時制であり現実とは別次元の内容である。
これは人によって違うから、意見は一人一人聞かなくてはならない。
良い提案があれば、相互に協力して建設に励むことができる。
皆が同じ現実の内容を話すばかりでは議論はいらない。
「理屈などは、どうでもよい。現実は見ればわかる」ということになる。
議論をすれば、現実描写に関する個人的なケチの付け合いとなり喧嘩になる。
皆が仲良く生きてゆくには、問答無用で生活することである。
現実にばかり囚われては、別次元の世界が一向に見えてこない。向かうべき所に関する夢も希望もない。
それで、諦観も必要になる。
アングロ・サクソンの考え方が我々の現状の打開策となるであろう。
彼らのメンタリティを理解するために、我々には英語の勉強が必要である。
ある時、私はアフリカの学者から「日本では、何語を使って大学教育を行っているのか」と尋ねられたので、「日本の大学は、日本語を使う」としごく当然のように答えると、相手はびっくりしていた。
きっとその人は、日本語で学問ができるなどとはとても考えられなかったに違いない。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
投稿: noga | 2010年12月22日 (水) 12時03分
noga様
初めまして。難しい文章と始めは正直恐れましたが、読むほどに、新しい世界を身近に感じました。ありがとうございます。
かって壁にぶつかっている日本を語る内容は、大半が表面的な技術的な話題にすぎず、もっと掘り下げて根本的な世界観、どういう風にしたいか、についての議論に踏み込まなければ、と思っておりました。議論には所詮定形の・・・賛成、・・・反対といった共通する話題から踏み出していない、浅い、したがって議論の発展性がない、と感じておりました。
>英米人の世界観は、未来時制であり現実とは別次元の内容である。
このお言葉は「我々(日本人)の現状の打開策」としてよく噛み締めたいと思います。議論における時制の認識とチェンジが必要と思います。
耕クラフト 山本耕道
投稿: 耕クラフト | 2010年12月23日 (木) 15時59分
I am really impressed with your writing skills as well
as with the layout on your blog. Is this a paid theme or did you modify it yourself?
Either way keep up the nice quality writing, it's rare to see a great
blog like this one today.
投稿: How Was The Himeji Castle Built? | 2022年4月12日 (火) 03時12分